優しい母が大好きでした。そんな母がよく言ったのが「戦争さえなければ苦労もなく、上の学校に行けたのに」でした。母方の祖父は、母が5歳の時、名古屋の大空襲で死亡。母たち5人きょうだいは、女手一つで育てられ、母たちは「女だから」と中学校を卒業し働きました。結婚し「嫁いだ」先は農家。農業経験ない母には苦労もあり農作業しながら「嫁」として休む暇もなく食事を準備する姿に私は「女性として幸せに生きるとは?」と考え、育ちました。
戦争はダメと思ってきた私は、京都の大学に入学し、すぐ民青同盟や日本共産党に参加。しかし、それが今度は母を悩ませました。大学1年の時、奨学金の有利子化反対の国会行動に参加すると、後日「アカにだけはなるな」と手紙が届きました。大学4年の時、民青同盟の専従になると伝えると、教師になって帰ってくると待っていた母は寝込むほど落胆しました。話せば私もつらく、決意が揺らぎそうで、気持ちをきちんと伝えられないまま卒業式。その日の前後に開かれた京都府立体育館での大集会に母を誘うと、規模と内容に少し安心してくれたのか「今日から自立です。しっかりやって下さい」と下宿に手紙を残して帰りました。その後の選挙で天安門事件のなか、母は共産党に投票。その深い愛情に涙があふれました。母は自分の道を切り開き、子育てしながら資格を取り、給食センターで定年まで働きました。
お母さん心配ばかりかけてごめんなさん。そしてありがとう。元気で長生きしてね。
【「しんぶん赤旗」2015年5月9日付】